

私からあなたへのメッセージ
私は、随分昔から「自由になる」ということが、いつも心にありました。
なぜ、私がこれほど”自由であること”にフォーカスするのかをお話させてください。
私たちの周りには、数多くの”常識”というものが存在していますよね。
ただ、この”常識”という代物、実は結構曖昧なものであることにお気づきでしょうか。
例えば、昭和時代の中盤くらいまでは、「男は外で働き、女は家を守る」ことが常識
でした。
でも、今はどうでしょう。社会的環境や意識が変化する中で、もはや常識って言うには相当無理があるどころか、下手すりゃ女性蔑視の差別くらいにまで変化しちゃっています。昔は当たり前だった常識は変化して、知らない間に常識ではなくなってるんです。
もう一つ例を挙げてみましょう。
”今年の流行色(トレンドカラー)”というものがあります。流行なのですから、自由な自然発生的なものに思えるかもしれませんが、実はそうじゃないんですね。インターカラー(国際流行色委員会)という民間団体によって決められてるんです。インターカラーによって決められるトレンドカラーは、実は流行の2年前に決められています。インターカラーによってトレンドカラーが決まると、アパレル製造の会社は、それに基づいて素材やスタイルを決め、その年の流行ファッションとなってるんです。アパレルの会社やデザイナーが、自分たちの自由な発想や感性ですべてのアイテムを創作しているのではないのです。まぁ、世の中の仕組みから見れば、当然と言えば当然です。
ただ、自由の代表例であるファッションについても、これほど人為的にコントロールされてるんですよ。
勿論、常識や人為的コントロールのすべて否定するつもりは全くありません。人が集まる社会では、一定のルールは必要ですよね。そうでなければ無法地帯になってしまって、安心して生活することはできません。そのルールの代表が法律で、常識などもこの範疇に含まれます。これらによって社会は円滑に運営され、私たちは安心して暮らせる効果があることは事実です。ただ、絶対に守らなければならない法律は別として、任意的な”常識”や、ましてや見知らぬどこかの誰かが決めた”コントロール”が、私たちを息苦しくさせている要因となっていることも、これまた事実でしょう。
これらをもっと自由に選択し、無理やり自分自身を型に押し込めるようなやり方を手放せば、どれほど多くの人が、本来目指す人生に変えてゆけるのだろうって私は想像します。そんな人生があるとしたらワクワクしませんか?
「本来の自分自身の目指す人生」だとか言われても、今更そんなことは無理だとか、少々息苦しくとも多くの常識やルールを守って堅実に生きることに何の問題もないという考え方も勿論あるでしょう。それはそれで構いません。すべてあなたの人生で、その選択も自由なのですから。
ここからは、自分自身の人生を、人から与えられたものでではなく、自身の選択によって本来の人生を取り戻したいという考え方に共感して、行動を起こす、あるいは行動を起こしたいという想いをお持ちの方だけ先を読み進めてください。
私は、本来の自分の生き方をしていないんじゃないかということに、随分前から薄々気づいていました。でも、多くの人が認めてくれそうな堅実な生き方とそれを実現できそうな職場を選び、自分の内なる声に耳をふさぎ、目をそらし続けました。経済的な面を含め、あまり余裕はないものの、何とかやっていける状況でしたし、当初の予定通りこのまま定年退職まで行けばよいと思っていました。「これでいいんだ。自分は間違っていない。」と。
ところが、社会の変化に伴う職場環境の変化や労働条件の変化は、どんどん加速しながら悪化していきます。自分でも気づかぬうちに、内なる自分の声に耳をふさぎ、目をそらし続けるだけでは対応が難しくなり、とうとう体を壊すまでに至ってしまいました。これは自分自身を無視し続けた結果です。そして、気づいた時には自分自身すら見えなくなっていたのです。
自分の生命やそれに伴う時間には限りがあり、このまま流されて生きていくとタイムアップが近いということに大きな危機感を持ったのが46歳の時でした。48歳で25年勤務した職場を退職しました。ところが、25年もの間、サラリーマン生活に適応させ続けた自分に慣れ切ってしまい、本来の自分をも見失っていた私は、再び迷路に迷い込み、そこから本当の行動を起こすまで更に9年の時間を要しました。
ただ、退職して、働き方や自分の時間の持ち方が変わって、改めて色々見回してみると、今まで当たり前であったことが変化してきました。私自身は、人生の時々の選択を出来るだけ自分自身で決めてきた意識がありましたが、よくよく考えると、そこには様々な周りからの影響がありました。
果たして、自分自身が自分だと認識していた自分は本当の自分なのか?
自分自身で作り上げてきたと認識していた価値観は本当に自分のものなのか?
自分の視点を、今までより少し引いて、出来るだけ大局的に見てみると、多くの思い込みや操作が入り込んでいたことに気づくこととなりました。これでは本当の自分にたどり着くことは容易ではありません。世の中の情報には、その発信者のベクトルが必ず大なり小なり入っており、真にニュートラルなものはほとんどありません。場合によっては、事実と全く異なることが事実のように伝えられていることすらもあります。そのこと自体は珍しいものでもなく、特段今更騒ぐようなものでもないのですが、「ニュートラルなものではない」ことだけは常に認識しておく必要があります。そうでないと、ニセ情報に踊らされるか、あるいは情報の洪水に流されるか、いずれにせよ自分自身を見失うことになります。
見失ったままだと、どうなってしまうのいか? 昨今のトレンドに合わせて、敢えてこんな言い方をしてみます。
「これからの時代、”AIに使われる人”になるか、それとも”AIを使いこなす人”になるか、ここが分かれ道です。」
本当の自分はどこにいる?
今、自分だと認識している自分は、本当の自分か?
これが、私が”自由であること”にフォーカスする根拠となる問いです。そして、自分が自由でいることは、自分自身を見つける最初の一歩から始まります。それはゆっくりでもいいんです。いつからでもいいんです。
本当の自分を見つけ、受け取った段階で、既にもう自由だと言ってもいいかも知れません。だって、後は自分の声を聴くだけなのですから。
そして、あなたにお尋ねします。
本当のあなたはそこにいますか?
あなたがあなただと認識しているあなたは、本当のあなたですか?
人生の時間は限られています。
ほんの少しだけ早く最初の一歩を踏み出せた私が、あなたの”一歩”のお手伝いをさせていただければと考えております。よろしければお声がけください。
